不守と仏
   
   
2008/05/27
   
   
おはようございます。

生物には、2つの本能があると言われています。

1つは、「自己保存」本能。
もう1つは、「種の保存」本能。

1つ目は、自分自身が生きる、生き延びようとする本能。
2つ目は、(自分はともかく)自分の種が存続するようには
たらく本能。

1つ目は、普通にわかりますよね。
通常は、生きようとするのは、ごく自然なことですから。

2つ目は、わかりやすいところでは、単純に「子どもを産む
(繁殖する)」というのがその表れ。自分の子孫を残そうと
することですね。

また、火事などの場面で、親が、自分の身の安全をかなぐり
捨てて、子どもを助けようとするのも、この本能が作用して
いるのかもしれません。

リチャード・ドーキンスは、「利己的な遺伝子」という説
で、「生物というのは、遺伝子の乗り物だ」という見方を提
唱しました。

普通は、生物が主体で、遺伝子というのはその一部、構成要
素の一つである、というふうに考えますが、実は、遺伝子こ
そが主体で、遺伝子は自らが存続するように、生物という乗
り物を形作っているのだ、という逆転の見方です。

遺伝子が存続するためには、その個体(たとえば自分という
一人の人間)だけが単に生きても、生きている間はいいけれ
ど、死んでしまったら、個体とともに遺伝子もなくなってし
まうので、それではまずいということになります。

だから、個体は死んでも、遺伝子は存続するように、子ども
という次の乗り物をつくるように仕向ける。

少し極端なまとめ方かもしれませんが、大体そんな見方だっ
たかと思います。

ちょっと背筋が寒くなるような見方でもありますね。
でも、人間第一主義に偏り過ぎないためには、ある意味でプ
ラスになるかもしれません。

昨日、「不守」という話をしました。

振り返ってみると、「守りに入る」「守る」というのは、1
つ目の本能である「自己保存」に通じるものがあるのかな、
と思います。

我が身を守る。我が身がかわいいから。

一方、「不守」は、ある意味で、そのかわいい我が身を捨て
ることでもありますから、2つ目の「種の保存」に通じるも
のがあるかもしれません。

自己保存と種の保存は、必ずしも対立する本能ではありませ
んが、「種の存続」というのが、ほとんどすべての場合で、
「自己の解体(死)」を前提にしていることを考えると、
「不守」→「自己の解体」→「種の保存」というふうにつな
げて見ることもできるかな、とひらめいたのです。

ところで、日本には、神仏というもの(考え方)が定着して
いますね(いきなりあっちこっちに話題が飛んで、すみませ
ん^^)。

神、つまり、神道。
仏、つまり、仏教。

それぞれを代表するキーワードに、次のものがあります。

神道は、「産び(むすび)」。
仏教は、「仏(ほとけ)」。

「産び」は、「産む」「結ぶ」「結実させる」という意味
で、何かを生み出す作用を表すと言われています。

「仏」は、「ほとけ」←「解ける(ほどける)」から来てい
るとも言われ、何かを解体する作用を表します。

「産び」≒「誕生」「生成」「個体の形成」「個体の存
続」。これは、「自己保存」本能につながるものと見ること
ができそうです。

「解け」≒「死」「解体」「個体の解体」「個体の停止」。
これは、「種の保存」本能につながるものと見ることも可
能。

ちょっと強引な結び付け方だったかもしれませんが、そんな
対応関係が浮かんで、おもしろいなと思ったのでした。

こう見ると、
「守」=「産び」
「不守」=「解け」
という図式になるので、「不守」で生きることは、仏にも通
じ、種の保存にもつながり得るなあ、と一人合点をしていま
す。

   
   
   
   
Copyright : Ryo Takashima